diary

2020/9/22

例えば自分がやりたいことがあって、それに協力して欲しくて説明するけれど、わかりやすさを求められた場合に、もうその人にはとても理解なんてできやしないんだろうなと思って言葉や数字をよりシンプルに説明的に、と思ってやったことが、そうしたことで自分がやりたかったことが本来の姿ではなくなっていることがある。写真、音楽、絵や映像や、他にもたくさん伝える手段があるのに、なぜこうも言葉なのか。数字なのか。

僕は悔しい。憂いている。できない言語化を無理矢理して、当然、お前は何がやりたかったんだ?と聞かれる。ですよね、僕もそう思います。僕がやりたかったことはこんなダッセーことじゃなかった。「言語化が下手過ぎて、わかりやすく伝えようとすればするほどダサくなる&魅力喪失&説明的になる病気」に僕はかかっている(っなんでやねん!)。

そんなとき、手で触って、耳を澄ませて、風景を見て、そうしたら言葉や数字では説明できないことがたくさんあることがわかるから、と、ひねくれてしまうけれど、本当はわかっているんだ。

その土俵だと、こっちの魅力は最大限発揮できないと思ってしまって単純に「伝える努力」を諦めてしまっていることと、自分が論点を見極めるのが苦手なことと、あと、わかりやすさを求められたときにまじ?これわからんの?やべくね?と言える自信が足りないだけなんだ。いや、なんか違うな、なんか…幼稚だ。

対等って、まじむずい。言葉って、言葉にするだけ失われていくものがあるからつらい。

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